雑談はコーヒーと共に

ダラっと好きな事について語り合いましょう、コーヒーでも飲みながら。

「選択肢」という理不尽

前書き:

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

さて、文学賞に応募となっているが、実際はお題を見てとある日のことが思い浮かんだので書こうと思っただけだ。特に文学賞を意識して書こうとは思っていない。そもそも帰国子女の私に日本語の文学的技術は全くない。ただ、このブログのテーマは「雑談」だ。趣味丸出しのブログなのでこの記事も私の趣味を丸出しでいこうと思っているが、私の記憶に残っているあの日を通してとある内省を打ち明けようと思う。これが少しでも(いるかは分からないが)読者にとって考えるきっかけになれば光栄だ。

挫折を味わったあの日

前に進むためには、何かを置いていかないといけないの。

これは恥ずかしいことながら、彼女に別れを切り出された時に言われたことだ。お互い、初めての交際相手だった。高校生の2人の共通点は、お互いに「支えてくれるもの」を求めていたこと。そんな2人が共依存に陥るのは避けられないことだったのかもしれない。先に気がついたのは彼女のほうだった。ある時から急に彼女の連絡が途絶えた。急な絶交に私はとにかく苦しんだ。自分が悪いなら謝るし直すつもりだと口では言っていたが、何がいけなかったのか根本的なことが見えてなかった自分はどうすれば良いかも分からず、急に空いた心の穴の痛みでただ苦しんでいた。1週間後に彼女の方から会おうと言われ、カフェで向き合って座った。もう何となく結果は察していたが、別れ言葉として突きつけられたのがこの言葉だった。その言葉曰く、自分は置いていかれるものだった。

選択を迫る世界

この日以来、1つの疑問がずっと私の中に残り続けている。それは彼女が残した「前に進むためには何かを置いていかなければならない」という言葉に対しての疑問だ。「何かを選択するということは何かを選択しないということ」「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」など色々な表現で言われている真理だ。本当にそうなのだろうか。何かを置いていかないといけない、切り捨てないといけない、という状況を避けることはできないのか。自分の失恋とかそういう話ではなく、世の中は本当にそんな構造で良いのだろうか、という疑問だ。

とある「正義の味方」を題材にしたアニメでは、登場人物が自分の全体主義的な正義の在り方に絶望し、「誰かを救うということは、他の誰かを救わない、ということなんだよ」と言ったことが印象に残っている(記憶から書いているのでセリフの言葉に差異はあると思う)*1。彼は自分を犠牲にしてでも誰かを救おうとする強い信念の持ち主だったが、その救いには限界があり全ての人は救えないという事実に絶望してしまった。

さて、このキャラクターが絶望に至ってしまったように、この「事実」はどうしようもなく、ある意味では悲しい「この世界の現実」になってしまっていると言える。この世界は、この人間社会は、どうも全ての人間が幸福になれるようには(現状を見る限りでは)できていない。マルクスが提唱したように世界は支配者階級と労働者階級にどうしても分かれてしまっている。搾取する側と搾取される側に分かれている。この世に蔓延る人間の悪性も消えようとはしない。搾取する側が悪意のある不当な搾取、または無自覚に行っている不当な搾取をやめればこの世界はもっと生きやすくなるのかもしれない。だが、そんなことが実現するのか考えてみると、希望よりは絶望の割合が多い気がする。社会もけっきょく、誰かが幸福を得るために誰かが不幸になっているのだ。両方は選べない。

クリスチャンとしての個人的な解釈

クリスチャンなので私の世界観はどうしてもこの宗教の影響を受けている。日本人には馴染みのない価値観や考え方も多いだろうが良ければ読んでみてほしい。なお、これはある程度のキリスト教の知識を持って話すつもりだが、私のキリスト教に関する知識はそんなに多いものでもなく、解釈も主流ではないかもしれない。私個人の解釈であり、キリスト教を代表する考え方ではないことを覚えていてほしい。

さて、聖書はこの世界をどう語っているかというと、案外暗いメッセージ性を打ち出している。この世界には「悪」も「不幸」も存在する。それは悲しいことだが同時に変えることもできない現実だ。神自身、その現実をすぐには変えようとしていない。創世記には世界創造よりも前に「混沌」が存在したことが書かれており(これは当時のメソポタミア文明を含めその地域の人々が信じていたことなのだろう)、楽園には「蛇」という外部からやってきた悪により人間が「罪」を犯してしまう。ヨブ記では善良な人間とされるヨブに起きてしまう不幸が因果応報なのか違うのか、神すらも巻き込んだ議論が描かれている。そう、世界に悪はあり、人間もまた悪を内在してしまっていることが聖書の世界観だ(「堕落」については更に長くなってしまうので割愛している)。

聖書の神は正しく清い聖なる神であるが故に人の罪や悪を許容することはない。そう、神は「悪」や「罪」は受け入れない。置いていく。罪人には「死」という対価を払わせて置いていく。しかし、置いていきたくないからこそ「救い」を用意した。旧約聖書時代は動物の生贄による罪の赦し、イエス・キリスト以降はイエスに対する信仰による赦し、これらは死の対価を他の生物に代わりに払わせることでその罪をそれ以上責めないことにする契約だ。このスケープゴートにより、神は悪を受け入れずとも人間を受け入れる手段を確立した。更には、代わりに死んだイエス・キリストは後に生き返ってしまう。オタクの視点から言わせてもらえば最高のチートだ。

このように神はある意味、「切り捨てない選択肢」を取ったとも言える。だが、この世界の構造は現状変わっていないので、切り捨てる選択肢が生まれる状況は結局変わっていないようにも思える。イエス・キリスト自身、このように語っている。

もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。*2

そう、正に「前に進むためには何かを置いていかないといけない」のと同じ言葉だ。これは救いを失うよりは、たとえ痛みを伴うとしてもその原因を切り捨てるよう言っている箇所だ。自分にとってとても大事なものでも、それが罪へと誘う誘惑や執着であるのなら、手放す必要が出てくるということだ。

結論

人生は妥協の連続なんだ、そんなこと疾うにわかってたんだエルマ。

と、あの「夜行性」アーティストは言う*3。(なお、これは歌を通して語られる主人公の言葉である。とはいえ、作曲者の人生観を反映しているとも思っている。)人生というのは思い通りにいかないことが当たり前で、人間はお互い妥協しながら共存している。

そう、僕があの時付き合っていた子に「置いていかれる」べきだったかと言うと、その通りだったと僕自身も思っている。あの挫折を通して僕も自分自身の過ちと向き合うことができた。自分が自分を大切にしていて、相手を大切にできていないことに気がつくことができた。今では、あの不健全な関係性を終わらせるために行動してくれたことに感謝すらしている。そして大学生の時には、僕自身似た行動を取ることにもなってしまった。時には、置いていく「べき」ものはできてしまうのだろう。より良い結果のために何かを置いていく状況が発生する可能性は消えない。

分かっている。彼女が言った言葉は正しい。疑問を抱いたとしても、私が悲しいと感じるこの現実は変わらない。

それでも、仮に「どちらかが不幸になる」「どちらかが置いていかれる」状況を回避することができるのであれば、それを目指したい。キリスト教の神も愛ゆえに全ての人間が救われる可能性を作りたかった。人間が正しい選択をし続ければ、妥協なんて消えるのかもしれない。でも、そんなこと普通は不可能だし、現実とはかけ離れた理想論に過ぎない。でも神はその理想主義を選んだのではないだろうか。もはやロマンチストだ。僕も、理想があるのであれば、どんなに可能性が少ないとしてもその理想を追い求めたい。ロマンチストでありたい。

今も常に自分の弱さや罪に押しつぶされそうになりながら、最善を目指して歩んでいる。その中でたまに、ふとあの日が思い浮かんで、「あの言葉に反論はできないのだろうか」と疑問に思う。これはただの僕という個人が張っている意地だ。もちろん、彼女に対して未練や怒りといった感情はない。これはただ、彼女がくれたあの言葉に対する僕個人のささやかな反抗なのだ。

結び

指摘を受けそうなので書いておくと、彼女が正しく選んだ選択肢の論理と、全員が幸福になれないこの世の構造に関する論理は似ているようで違う状況の話だ。そこは理解しているつもりだ。それでも僕のこの思考はあの別れの日から始まり、このように連鎖していったためあえて繋げて話している。実際、搾取を否定できるように人格として成熟していけるのであれば、正しさの為に何かを切り捨てる状況も減っていくのではないかと思ってもいるので、完全に無関係でないと主張したい。

また、昔付き合っていた女性についてずいぶんと語ったが、交際相手との過去は交際相手のプライバシーでもあると思っている。その為、どこまで書いてよいか悩みながらこのブログ記事を書いた。彼女との出来事はできる限り簡潔にまとめ、彼女の言葉に対するアンチテーゼを深く掘り下げたつもりだ。

最後に、皆さんはどうだろうか。人生は本当に何かを切り捨てないといけないものなのだろうか。全てを救うという都合の良い正義の味方は絶対にあり得ないのだろうか。幼稚なのだろうか。全員が幸福になることは不可能なのだろうか。答えの見つからないテーマであり、「考え過ぎ」だとか「厨二病」だとか、「無駄で非生産的な思考」だと考えるかもしれない。もちろんその結論も否定しない。少しでもこれが考えるきっかけになり、ちょっとでも前に進むエネルギーになってくれるならそれ以上のことはない。

*1:Fate/Zero』『Fate/stay night』に登場する衛宮切嗣のこと

*2:マタイによる福音書‬ ‭18:8-9‬ ‭新共同訳‬聖書より‬

*3:ヨルシカ『藍二乗』より引用