雑談はコーヒーと共に

ダラっと好きな事について語り合いましょう、コーヒーでも飲みながら。

見えない所のクリスマス

こんばんは。昨日に引き続きクリスマスについて語っていこうと思います。かなり私の宗教的思想に関わる話になるので苦手な人はご注意ください。

クリスチャンにとってクリスマスと言うのは自分らの救済の源であるイエス・キリストが地球上に生まれた日です。教義的な説明では、本来は神である神の子が、その神聖を捨てて人類のために人間になった、ということです。ここが重要なわけです。空の上で偉そうなこと言ってる神なのではなく、隣に立ってくれて「友」と呼んでくれる存在になったのです。

そしてイエスが何をしたかと言うと、大衆や貧困層を大事にしながら救いを説き始めたわけです。その中には娼婦や奴隷もいるわけです。社会的には落ちぶれていて、救いなんて訪れないだろう、と思われていた人種に寄り添ったわけです。

聖書というのはひたすら弱者に寄り添う神の物語だと思っています。

旧約聖書アブラハムの物語には女奴隷ハガルが登場します。家族関係のいざこざでほぼ被害者として砂漠に幼い息子と一緒に放り出されてしまいます。そりゃあ絶望するわけですが、そこに神が語りかけて彼女を守るわけです。この物語の凄い所は、当時は社会的地位が最下位である奴隷でしかも女性という、社会で捨てられたら生きていけないほど弱くされている(そして実際に捨てられた)存在を神が守ったということです。

エスの生誕の話も似ています。イエスが生まれたことを天使が羊飼いに伝えたのです。羊飼い達は奴隷ほどではないですが、社会的に身分は低く、搾取される側がなる仕事らしいです。ユダヤ人ではない人種がなっている場合が多い職種です(聖書でいう異邦人です)。ユダヤ人には神が自分達の民族に約束を取り付けてくださったという一種の「選民思想」がどうしても付きまとうのですが、イエスの生誕は最初からそれを否定しているわけです。救いはユダヤ人だけのものではなく、奴隷や身分の低い存在にも訪れたのです。

私は物心がついた頃から自尊心や自己肯定感というのはゼロに近いし、マイナスで突き抜けてるかもしれません。生きる意味が見出せないし自分の命には価値が無いからいつか死のう、と本気で思ってました。経緯は省きますが、そんな、自分で自分を底辺に落とし込んでいる存在にも神の救いはあるんだな、というのが私個人にとっての救済となりました。この事実一点で私は初めて自分の命が無価値だとは思わなくなりました(厳密には、私個人は価値を見出せませんが、神が価値を見出すのならそれは私には理解できなくとも価値があるのだろう、という解釈です)。クリスマスは、底辺の存在にも、皆から忘れ去られている存在にも、自分にも、救いを運んできてくれた良い知らせなのです。

こうやって私は自己肯定の問題は根本的には解決して、今の人生をもっと自信満々に走るべきなのですが、今年はとにかくキツイ一年でした。まああまりにも忙しい、というのが理由ではありましたが、自然とクリスマスの救いや、聖書の戒め等からほとんど離れてしまっていました。問題は世間が求めるようなサービスや製品を通して解決しようとしましたし(それが悪いわけではなく、クリスチャンとしてはズレているという話です)、聖書をあまり開けなくなっていました。そんな私がよくクリスチャンとして働いていたなっと思ってもいます。色々と気づかないところで摩耗しているのだろうし、そのツケを払うタイミングが一気に来てしまったらおそらく今の自転車操業は破綻します。

ズレてしまったときは、再調整するしかないのです。時計の針が定期的にズレを調整する必要があるように、もっと早いタイミングで自分のあり方を調整するべきでした。ちょっとでもズレると、進めば進むほど本来の位置とは離れていきます。随分と離れてしまった気がする。できれば、クリスマスや新年をきっかけに、本来の立ち位置に戻れれば、と考えています。救いの基本的な原理に立ち返る機会が今回のクリスマスです。

以上、誰が読んでも得をしない私個人の内省でした。