雑談はコーヒーと共に

ダラっと好きな事について語り合いましょう、コーヒーでも飲みながら。

病気や障害の意味

「ケーキめっちゃ美味い。」と涙を堪えながら目の前でケーキを頬張る旧友。

僕はそれを黙って見ていることしかできなかった。

ある小説の話をさせてください。三浦綾子の『塩狩峠』という小説です。クリスチャンの小説家なのでクリスチャンの間では有名な人です。彼女の実力はクリスチャンではない人にも評価されていて、お笑い番組の「笑点」のタイトルは彼女の『氷点』をオマージュしたものらしいです。気になる方は読んでみて下さい。『氷点』はかなりハードな内容ですが『塩狩峠』『道ありき』はかなり読みやすいと思います。

この本の主人公である永野信夫はある兄妹と仲良くなります。足に障害を持つ妹の吉川ふじ子とその兄である吉川修です。ふじ子はずっと足を引きながら歩いていますが、その事を恥とも思わずに強く生きていける子でした。その兄である修が信夫にこう言ったのです(Kindle版より引用)。

「そうだよ。考えてみると、永野君、今ふっと思いついたことだがね。世の病人や、不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねえ。」

主人公はすぐにはこの意味を理解できませんでしたが、修は話を続けます。

「そうだよ、永野君、ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんなふしあわせに生まれついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人をみると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大きな影響を与えていることになるような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれて来ているんじゃないだろうか。」

このセリフに対して色々な反応があると思う。人によっては失礼だと思うのかもしれない。正直、僕は読んでいる時は少しそう感じました。ですが今では何となくこの意味が分かる気がします。

さて、ケーキを頬張っていた友達の話に戻しましょう。その友達は僕がボリビアにいた頃からの古い友達でした。色んなことで塞ぎ込みがちな僕に対してとってもよく接してくれました。土曜日はよく午後の1時から遊んだものです。ボリビアにはシエスタの文化があるので、12時から1時は寝ている時間でその時間に電話をかけることは失礼とされていました。ですので、決まって1時に「遊ぼう」という電話が来るのです。

彼は軽度の知的障害を持っているのですが、特徴としては対人関係が得意ではないことや、物事の処理が遅いこと、こだわりが強い等が挙げられます。また、時間や決めたことに対するこだわりも強く、午後1時の電話は毎回ピッタリにかけてきました。

そんな彼とは、僕が日本に戻ってきてから自然と疎遠になりました。まあ地球の反対側に住んでますからね。しかし、彼がボリビアの高校を卒業してからは日本の専門学校に入るために日本で勉強する、という話を聞いていました。会おう、という話になったのは彼の入学が決まった直後の時でした。待ち合わせの場所に行き、積もる話をするためにカフェに入ることにしたのですが、その時に彼は「今日は僕はケーキを食べる。」としきりに言っていました。妙にケーキにこだわるな、と疑問に思っていたら、どうやら日本に来てからずっとケーキを我慢していたらしいのです。日本に来て勉強して専門学校のお金も稼がなければならない彼は、ケーキをずっと我慢しており、入学も決まって古い友達と再会できる今日というめでたい日にケーキを解禁すると決めていたらしいのです。

そんな彼がケーキを口に入れたときはもう感動した顔で「美味しい」と言いながらゆっくりと味わっていました。僕はそんな彼を見ながら涙が出ないように堪えていました。その食べている時の様子で、彼がどれだけケーキを我慢して、どれだけ努力してきたかが伝わってきたからです。「自分はここまで努力できているだろうか?」と考えていました。彼は知的障害者なので、周りが簡単にこなす勉強内容でさえ人の何倍も勉強しないとついていくことができません。ですがそんなデメリットをデメリットとしておそらく彼は考えていないし、ただ努力し続けてきたのです。入学試験も受けて入学をもぎ取っているのです。「僕はここまで努力したことがあるだろうか?」「僕はここまでケーキを我慢できるだろうか?」「僕は彼の事を正しく見れているだろうか?」

知的障害の人と接するには(もちろん人によって違いますが)、多少の根気が必要だとは思ってました。ずっと遊んでくれた彼のことを見下したりしてるつもりは全くありませんでしたが、それでも「彼は他とは違う」と心のどこかでは思ってました。接するのが面倒臭いと感じたことなんて正直言っていくらでもあります。でも結局、彼は僕と同じ人間なんです。そして彼は決して楽して育ってない。楽をしながら生きてはいない。人一倍努力をして生きている。そんな彼を見下して生きることはきっと罪だろう。そう思いました。尊敬すべきなのです。僕は彼と一緒にケーキを食べながら、自分のことを恥じました。

身体障害者知的障害者とは何人か人生で仲良くする機会に恵まれましたが、彼ら・彼女らと会うたびに己のことを見つめ直すことになります。彼らは他の人間と変わらず、むしろ一番人間らしく頑張って生きているんです。どんなデメリットを背負っていても、聖書の神は同じように彼らに愛を注ぐのです。彼らと接するたびに、自分が真に善い人間として彼らと接することができているか試されていると感じるのです。

塩狩峠の話に戻りますが、身体障害者知的障害者は「特別な使命を背負っている」と言うのです。吉川修のこのセリフはとても良いと思っています。劣っていると見るのではなく、むしろ優れているのです。この方達がいることで、僕たちは自分の心を試されるし、より優しくて強い生き方を模索することができる。配慮が必要な存在、自分よりも苦しい道を歩んできた存在と遭遇した時、その時に僕たちは自分の人間性を問われるのです。そう思ってます。今でもその友達は連絡をくれます。その優しさを無碍に扱わないようにしていきたいと思います。