雑談はコーヒーと共に

ダラっと好きな事について語り合いましょう、コーヒーでも飲みながら。

空気を読まない真理② 「命なんて感じない」

僕の大学で面白い企画があった。もう名前は忘れたが、神道、仏教、キリスト教の人を集めて議論をさせるシンポジウムだ。元々キリスト教大学というのもあって注目は高く、かなりの学生が見にきた。

集められたのはまず司会・進行役として大学に所属している哲学の教授と、同じく大学でキリスト教の授業を行っているカトリックの教授(元司祭だとか)だ。仏教はたしか外部から僧侶の方を招いていた。(仏教の教授は学内にも居たので、正直どっちだったかは覚えていない。)そして神道は外部からの、なんだろう、神職なのかな、とりあえず専門家的な人を招いていた。昔のことなので、外部の方についてはあまり覚えていないことは申し訳ない。

さて、今回もまた僕の記憶に残っているある人のセリフを紹介したいと思う。沈黙の中で、誰も口にしなかった言葉をあえて声に出して見せた僕の同期のセリフだ。はじめに、経緯を説明するためにも全体の流れを少し説明しておきたい。

そもそもどんなプログラムなのかを詳しく話していくと、要は哲学的な問いに対して各宗教の専門家はどのように答えるか、それぞれの宗教がどのような答えを提示するか、というプログラムだ。司会は大学の哲学の教授が務めた。本人はクリスチャンで彼の本は結構有名だったりするが、司会者なので中立的に進行役をしていた。問いは哲学的な内容なので進行役としても話を上手くまとめたり視聴者のために説明したりしていた。例えば、こんな問いだ。

「どの宗教も同じ山頂に辿り着くと思いますか?」

さて「山頂」とは何のことであろうか。司会の教授がちゃんと説明してくれた。なおこれから書く説明は僕の記憶をもとに書いているので正確性に欠けている部分があるであろうことはご注意を。人間の人生を山に見立ててみよう。そして山頂は「救い」とか「悟り」とか、宗教が定義する人生の「目標」であり「到達点」である。

ここでまず考えないといけないのが、そもそもそれぞれの宗教にとって「山頂」とは何なのか、ということだ。例えばキリスト教であれば「救い」とか「救済」とか呼ばれるものだろう。仏教で言えば「悟り」とか「解脱」「涅槃」とかだろう。神道は…あれ、なんだろう。シンポジウムでもどう説明されていたかは覚えていない。僕が持っている知識からとりあえず補完すると、「自然や神々との調和」といったところだろう。さて、これらは全て同じ「山頂」なのだろうか?そもそも違う山に続いている、と考えることもできるかもしれない。皆さんはどう思いますか?僕は「違う」と言いたくなりますが、人によってはそれぞれの目標が結果として人間に同じような効果をもたらすのであれば、それは「同じだ」ということにもなりそうですよね。

次に重要なのが「同じ山頂」ということだ。書いたように違う山ではなく同じ山、ということだ。それぞれの宗教は明らかに違う部分があるので、山頂に向けて「同じ道」を通らないことは明らかだろう。しかしだ、例えば富士山を登るとして、必ず同じ道を通って登る必要はない。どんな道を通ろうと、大半の人が通らないような険しい道や崖を登って山頂に辿り着こうと、辿り着いてしまえば結果は同じ。結果オーライなのである。そしてこの例えが宗教の本質を表してはいないだろうか、というのがこの質問のキモだ。

皆さんはどう思いますか。それぞれの宗教は同じ山頂を目指しているのでしょうか。そもそも違う山を目指しているのでしょうか。山のてっぺんに至る道のりは複数存在し得るのでしょうか。

そして申し訳ないのですが、それぞれの宗教の専門家たちがどう答えたのかは覚えていない。直感的にはキリスト教と仏教は「辿り着かない」と答えると思う。神道は…知識不足で僕にはわからない。

「他の宗教でも人は救われると思いますか?」

さて、似た内容だが印象的だった議論がこの問いだ。この問いにキリスト教は「救われない」と答え、仏教も「救われない」と答えた。対して神道は「(救いが)あってもよい」と答えたのだ。更には、他の宗教には「救いはない」と答えたキリスト教と仏教の専門家に対して「悲しいですねぇ…。私はあったって良いと思いますけどねぇ…。」と感想を述べていたのを覚えている。

実に日本人らしい発想だ(神道は日本特有の宗教だし)。平和的な思考をもち、他の宗教を否定しようとはしないのだ。実際、日本という国は神道という宗教がありながら仏教も受け入れ、更にはクリスマス、洋式の結婚や葬式などといった他の宗教の文化に寛容な姿勢を見せている。可能であるなら他宗教も含めて全ての御利益にあやかりたいし、それは悪いことではないのだ。そもそも神道も国家によってまとめられる前は地域によって様々な違いがあったらしい。この慣用的な性質は外国にとっても特異に思えるらしく、たしか遠藤周作はこの日本の性質を全てを受け入れつつ独自の文化として取り入れてしまう「沼」として表現した。

対してキリスト教と仏教の教授らは、他の宗教を否定したいわけじゃないし「悲しい」という神道の専門家の気持ちも理解できていただろうが、これだけは譲ることができない。キリスト教の根本的な教義は「イエス・キリストの十字架による罪の赦し」であり、そこから離れてはいけないし例外も存在しない。仏教は「執着を捨てこの世の法則(輪廻)から解放される」ことが目的なので、他の手段など存在しない。これを譲ってしまうと違う宗教になってしまう。

ついでに司会の教授(哲学者)が中立的に話を進めていく中で出してきた例えも紹介しておこう。彼曰く、宗教とは「人が偶然すがった藁」と考えることもできるらしい。ある人が溺れかけていると想定しよう。宗教とは、その人を助けるために投げ込まれた様々な浮き輪なのだと。キリスト教の浮き輪も投げ込まれるし、仏教、神道などの浮き輪も投げ込まれる。そして溺れかけている人間が生き延びるために最初に手にした浮き輪が、その人の信仰する宗教なのだと。誰が何と言おうとも、その宗教はその人に「救い」をもたらしたということである。確かにキリスト教徒である僕もキリスト教を通して救われたと考えているし、宗教家にとっては信仰している宗教こそが「救い」だったり「支え」だったり、人生の「指針」だったりする。そしてそれはその人にとって大切な体験なのだから、他の人や宗教にそれを否定する権利はないのである。問いに対して上手く中立的なまとめかたをしたな、と当時の僕は思っていた。

さて改めて、読者の皆さんはどうお考えでしょうか。「浮き輪」の考えに同調しますか?世界には複数の「救い」があると思いますか?私ももちろん他の宗教を否定はしないし敬意と尊重を持って接していきたい。でもはたして仏教徒は救いの確信を持っているのだろうか。神道は信者に救いをもたらしているのだろうか。という気持ちはキリスト教徒と抱いたりはする。まあお互い様なんでしょうけどね。ある友達は「キリスト教の理念は確かに人を救うよね」と評価してくれたことがある。仏教学校を卒業した別の友達は「仏教だって人を救う」と言ってきたことがある。「救い」は人それぞれだし、違う宗教である限り相容れない部分は存在すると思うが、尊重する気持ちだけは忘れないようにしていきたい。

「皆さんはこれに命を感じませんか?」

長く話してしまったが終盤の話に入っていこう。他の救いも存在する、と答えたこの神道のお方、かなり感受性の強い方のようで他の宗教であっても強く共感や感動の念があるようだ。ノートルダム大聖堂に行った時に深く感動したのだとか。ノートルダム大聖堂キリスト教カトリック)の建物だが、見に行った時に感極まってしまい、なんと許可を取ってそこで全裸になり、法螺貝を吹きながら舞を踊ったらしい。人目のある場所だったら公然わいせつ罪的な法律に引っかかりそうなものだが、バルコニーやら屋上やら人目のつかない所でやったらしい。この行為がはたして神道的なのかはともかく、彼はキリスト教の聖堂に対して畏敬の念を抱き、舞まで踊ってくれたのだ。

シンポジウムが終わる直前、彼は「ちょっと待ってください」と言って閉会の言葉を遮った。そして話にあった法螺貝を持ち出してこの音を聞いてください、と聴衆にお願いした。「ぶぉぉぉおおおおおおん」と音が鳴りわたる。何回か鳴らした後に彼は、「皆さん、この音に命を感じませんか」と聞いた。

想像してみて欲しいのですが、皆さんは法螺貝の音を聞いて彼の言う「命」を感じると思いますか。その時の私は「あー良い自然の音だな。吹くの上手いなこの人。」くらいの気持ちで聞いていました。

シンポジウムに来ていた聴衆はシーンと静まりかえっていた。そのまま閉会へと進んでいったわけだが、僕の隣に座っていた大学の同期が、「いやただ法螺貝の音だろ。命なんて感じない。」と周りの人が聞こえる大きさで答えていた。法螺貝を吹いた神道の方の問いに沈黙で答えていた聴衆の中で、おそらく彼だけが自分の意見を声に出して述べていた。

感じ方は人それぞれだっただろう。しかしその場は沈黙が流れており、「命を感じますか?」という問いだけが残っていた。感覚としては、雰囲気に流されて「感じるかも」と思ってしまう力が働いていたと思う。僕自身、自然音は好きだし自然に神秘は感じるので、はっきりとした考えは持っていなかったが、どちらかというとその問いは肯定的に捉えていた。しかしその友達の一言がその流れを断ち切ってくれたと思っている。ある人はその音に神秘を感じても、他の人にとってそれは何でもないのだ。彼のために説明しておくと、彼はカトリックであり、リトアニア出身の留学生だった。自然に囲まれつつ神を信仰しているので自然に対しての感受性は十分あるはずだ。それでもあえて彼は言い切った、「命なんて感じない」と。

宗教にはどうしてもこの問題が付きまとう。その人は神秘を感じるのだろう。その人は命を感じるのだろう。その人は救われたのかもしれない。でも果たして、それは本当に正しいのだろうか。思い込みではないのか。宗教的なことを論理的に見ろ、とまでは言わないが、その信じていることが勘違いで終わらないだろうか。あの神道のお方が「私は命を感じません。いったい何の意味があるのですか。」と問われてどう答えるのだろうか。神道に限らず、「それってあなたの感想ですよね」に反論できなかったら宗教はただの思い込みで終わる。パワースポット商法と何も変わらなくなる。

あなたはどうでしょう。自然に神秘を感じますか。命を感じますか。解脱や救済を信じていますか。それは同じ山ですか。それともそれは思い込みですか。

僕自身、人間として、自分が持つ考え方・思想・信仰がただの思い込みで終わらないためにも、考え続けたいと思っている。